Georg Krenke

Adressbuch Markneukirchen I.V.1929/30 [Archiv] Ahnenforschung forum.ahnenforschung.net/archive/index.php/t-29966.html 17.11.2009.16.34 Georg Krenke (Inh. Kurt Hoefer), Fabr. u. Grosshdlg. in Musikinstrumenten, deren Bestandteilen und Saiten, Pestallozzistr. 28

Maggini Model

ネット販売されているものは1900年頃の作品で作者未詳 (?900.00)
(virtuosviolins.co.u:£2,750.00) An excellent example of a Maggini model violin made in Markneukirchen for Schuster & Co in the late 19th Century(ca.1890) Typical of Maggini violins this marvellous piece of craftsmanship has double purfling front and back, and an exactly carved scroll with an extra turn. The two piece back has a gorgeous flame and the spruce for the top is equally well chosen with its fine and even grainiing, all finished in a beautiful golden varnish. As for the sound, if you want a big sounding violin this violin is BIG! It rocks!!! However, at the same time it maintains all the subtiety and finesse you may require. A very desirable and collectable instrument.

Paul Knorr (1882 - 1977)

Adressbuch Markneukirchen I.V.1929/30 [Archiv] Ahnenforschung forum.ahnenforschung.net/archive/index.php/t-29966.html 17.11.2009.16.31 Knorr, Paul, Geigenbauer, Wernitzgruener Str. 24 ラベルはなく、P*K の焼印 父親のAlbert Knorr から学ぶ。Albert は、Mas Doelling の弟子。 Saxony's Vogdland地方で修行した後、Breslau とBerlin で働き、 Robert Beyerの工房で修理の腕を磨き、長となる。 1921年に故郷に店を開く。[corilon.com] 1882年生、1918-21年、マルクノイキルヘンで製作。 M. Doellingに師事し、Breslau とBerlinで働く。 F. & R.Endersに雇われ1918年からマルクノイキルヘンで働く。 1921年に独立する。[amati.com] 1923年に自分の工房を開く[johnsonstring.com]

Matthias(II) Alban (1634.12.29Kaltern/Suedtyrol -1712.2.7 Bozen)

Matthias Albani (I) の息子で弟子。 1664年にローマのMartino Arz に学ぶ
1666年にAndrea Portoghesi のために働く
1671年にボルツァーノで工房開設
[amati.com] 1671年から Bolzano (Bozen)に拠点、ここで二人の息子Michael とJosef に支えられて製作した。残る楽器は非常に少ない。
一つはインスブルックのフェルディナンダム楽器コレクションにある
またニュルンベルク、マイランド、プラハにもあるとか
1683年に最初の作品
作品とされる物の中には二人の息子によるもの、低質な偽物もある。
amati.comで紹介するラベル例: Mattio Albano fece in Rome. 1684 Mattio Alban fecit Bolzan. 1702 Mattio Alban. fecit Bolzen. 1700 WEB販売のラベル例 Matthias Albanus me fecet Bulsani in Tyroli 1680 Matthias Albanus fecit in Tyroli Bulsani 1694 Michael Albani(1677-1730)Matthiasの息子、グラーツ
Michael 作1720年のバイオリン£20,000 US$25,032)
「音はユニーク。クリーンで正確であり、響いて深い。
 数ヶ月前ある部屋で有名な演奏者と世界最高の修復者と一緒だったとき、
 私がいくつかのバイオリンを試奏していてこの楽器を取り上げた瞬間、
 彼らは全て手を止めた。全員が、このバイオリンには何か特別なものがあるのを感じた
 自由な音楽の声を持ち、弓コントロールのニュアンスに特別に反応する−が強靱で、
 どんなに強く弾いても本質的な明快性は残る。ロマン派以前のレパートリーに理想的であり、
 モーツァルト、とバロックに真の美しさを現すだろう。
[martinswanviolins.com]   Josef Anton Alban (1720-1771)ボルツァーノ

ボルツァーノは、モーツァルトのイタリア旅行の通過点で手紙に描かれている。

Klotz

Matthias I (1656-1743) Mittenwald のバイオリン製作者
 パドゥアでジョバンニ・ライリッチに学ぶ
 クレモナでヤコブ・シュタイナーとニコロ・アマティに学ぶ
 Mittenwaldに帰り、「チロルのクレモナ」と言わしめた
 材木の選び方と処理方法が未熟と批判されることがある。
 二人の息子Sebastian(1675),Georg(1677)が父を超えている
Sebastian I (1696-1768)の作品はファミリーの中で最高
Joseph(1743-1819)は父のセバスチャンの作風を継いだ
品質には大きな格差があり、ラベルのみで低質な偽物の例も多い。

Maggini, Giovanni Paolo (c.1580-c.1630) Brescia, Italy

Botticinoに生。 1586年頃にブレシアへ移りガスパロ・ダ・サロ(1542-1609)の弟子となる。 1606年に独立し、25年間に亘りバイオリンとビオラの開発。 35.5cmの中型モデルと、37cmの大型モデルの2種類。 ラベルに日付がない。年輪分析では死後の作品もあり後継者を示唆。 クレモナのアマティと同じく1630年に北イタリアを襲ったペストにより没。  * Gio. Paolo Maggini Bescia Paolo Maggini in Brescia Giovanni Paulo Megre a Brescia 1615 (Smithonian) パフリングが二重、渦巻が一つ多い。 (number of scroll turns) (All the Maggini-types have double purfling "it seems this extra turn in the scroll was common in "Maggini" German copies around 1900-1920, but Maggini never actually did an extra turn. The double purfling was a Maggini trait. Looks like a "Maggini" copy from the MKN area to me. (Markneukirchen ?) A GERMAN MAGGINI MODEL These Gernman Maggini models have found favor with fiddlers for their robust, "travelin" tone, along with the similar da Salo copies. Da Salo was Maggini's teacher so it makes sense that they look like kin! ..." [menzelviolins.com]

Gasparo da Salo(1542-1609)

サロで生まれた。 1562年、父の死後ブレシアに移住し工房を開設した。オルガン等楽器制作者が集住する地区。 ガスパロ・ダ・サロの楽器は広場で演奏される音量を有し、後のストラディバリも学んだ。 80の楽器が残る。ダブルパフリングが見られる。

Brescia

ロンバルディア州ブレシア県都
アルプス以北との交易で栄えた
ローマ時代の正方形の都市計画
武器製造

Richard Ward

第二次世界大戦とバイオリン製作の発展、衰退そして再興

ドイツの片田舎:マルクノイキルヘンにて(2016.10.14 Richard Ward)

旧東ドイツのチェコ国境に近いザクセン州Vogtland地方として知られる小さな遠い地方の話である。 数世紀に亘り、世界のどの他の地域よりも大量の弦楽器が生産された。バイオリン、ビオラ、チェロ、バスの 生産総数は誰にも正確にはわからないが数百万のオーダーであることは周知である。 19世紀の終わりまでに、米国には貧しい学生のための安い楽器の洪水が発生した。 Sears, Montgomery Ward その他の楽器商のカタログによって。

マルクノイキルヘン周辺での商売は繁盛し、ドイツの他のどこよりも長者が生まれた。 何千人ものバイオリン製作者がこの一大産業に従事し、その多くは住宅外で労働した。 この繁栄はヒットラーとナチの台頭まで続いた。 1930s-40年代のハインリッヒ・ロートなどの製作者の楽器からしばしば認められることは、 多くの労働者が軍需産業、次いで兵士に動員されたことだ。 30年代後半にはナチズムの台頭に伴い、ドイツ製品の需要は激減した。

このザクセンの小さな地域は空爆を受けることも無く、 小数の高齢製作者が止まり上質の木材の十分な供給の上にバイオリン製作を続けた。

1945年春には、戦争がVogtlandにもやってきた。米国軍が南からこの地域を通ってプラハまで進軍した。 クラウス・ゲッツはヴェルニッツズグリュン(マルクノイキルヘンの一部、チェコ国境から半キロ程)で育った。 彼の父親は有名なバイオリン商C.A.ゲッツ社を経営しており、現在も同氏と息子が事業を継承している。 クラウス氏の記憶によると、米国軍は住宅と工場を兵員のために接収したがほんの数週間で撤退し、 代わってソビエト軍が進駐してきた。

そのときから全てが変わった。 戦争が最終的に終わると、混沌が支配し生活は貧しくなった。 バイオリン製造業の大きな部分は国境のチェコ側のズデーデンと呼ばれる一帯にあった。 製作者はドイツ民族で何世紀もそこにいた。終戦後、ロシア人と地元のボヘミア人に急遽追放された。

1945年の冬を凌ぐために、製作者は高価な栂材を燃やして暖をとった。 米軍がいた間は、シェーンバッハ(今日のチェコのルビー)で操業していたドイツ人製作者フレッド・ヴィルファは、 米軍のトラックと軍服を使用させてもらった。

彼は3回国境を越え、材木、楽器と道具をドイツ領内に運んだ。

彼は勘良く、マルクノイキルヘンを超えて、Alliesが支配する北バーヴァリアに至った。 1950年代初期には、彼が選択したブーベンロイトとエルランゲン付近は、ドイツバイオリン製作の中心となった。

ソヴィエトの支配下に入ると、バイオリン交易に従事する多くが移転の必要を感じた。

1946年には、ズデーデン地方のドイツ人製作者は殆ど転出し、数キロ圏にあるマルクノイキルヘン近郊ではなく、 エルランゲン周辺へと移住した。先祖伝来の地を去るに際して、わずかの身の回りの品だけを携行し、 材木、道具と完成した楽器は残してきた。

1940年代末に、クラウス・ゲッツ氏の父は死を予感した。彼の会社は世界中、とりわけ米国の取引先とユーザを 抱えており、地元警察と共産党機関が生活(および事業)を難しくしていた。 そこで、まだできる内に事業をヴェルニッツグリュンの2時間南西に移した。 クラウスと母は1950年代初頭までマルクノイキルヘンに止まったが、共産党に財産を没収された。 そこで、ベルリンを経由して一族と合流することを決心した。会社は2000年まで戻らなかった。

エルンスト・ハインリヒ・ロートに大きな工房は、マルクノイキルヘンの大きな建物で50年代初期まで操業を続けた。 しかし共産党政府との折り合いがつかず、工房は没収された。 工房は1953年にブーベンロイトで再開され製造を開始した。 マルクノイキルヘンの美しい建物は後に、共産党政府が設立したムシマ生協に使用され、 地域に残る職人を集めてギターやその他の楽器の量産を行なった。

1952年までは東西ドイツ間のおっ今日はかなりオープンで数百数千の東ドイツ人が国境を越えて西に移住していたが、 やがて閉鎖された。1961年ベルリンの壁が建設されると、移住は困難となった。

共産党が支配するVogtlandのバイオリン製作者に何が起こったか? まず最初にはロシア人のために楽器を製造し修理することが強制された。 しかし東ドイツ政府(ドイツ民主共和国GDR)が権力を握ると、日々の暮らしの細部までコントロールが及んだ。 共産主義下では制作者は誰にでも作品を販売することはできない。とりわけ西側に販売することは困難だ。 楽器は、ムシマ生協を通じてのみ販売でき、しかも直接的販売はできない。 制作者は、全てのGDRの労働者と同様、労働の対価としてわずかな給料を支給された。 多くの場合、製作者は自らのラベルを楽器に貼ることが許されなかった。

ベルリンの東ドイツ政府は、民間事業、とりわけ輸出業を抑圧し禁止した。 輸出は政府の完全なる支配下にのみ許された。 東ドイツの中央の計画者たちは、東圏に輸出可能な製鉄、鉱山、重機重工業に関心を寄せていた。 バイオリン製作者にとって、指板、糸巻、弦などの部品を入手することはますます困難になった。

一方、松と栂は地元の山林から簡単に入手できた。 何世紀も前からのドイツのギルド制度のおかげで、 バイオリン製作者の訓練は統制され効率的に熟練製作者を輩出してきたが、 共産主義下では、この体制は解体された。

後に、マルクノイキルヘンにバイオリン製作学校が設立されたが、遅きに失した。 驚くべきことに、冷戦の間には世界的に有名なシンフォニーオーケストラが活動していたにもかかわらず、 ベルリンに1,ドレスデンに1、ライプツィヒに1のバイオリン製作者しか存在しなかった。

当面Vogdlandから米国に届くバイオリンは非常にわずかだった。 フィラデルフィアのWilliam 1952年までは東西ドイツ間の越境はかなりオープンで数百数千の東ドイツ人が国境を越えて西に移住していたが、やがて閉鎖された。1961年ベルリンの壁が建設されると、移住は困難となった。共産党が支配するVogtlandのバイオリン製作者に何が起こったか?まず最初にはロシア人のために楽器を製造し修理することが強制された。しかし東ドイツ政府(ドイツ民主共和国GDR)が権力を握ると、日々の暮らしの細部までコントロールが及んだ。共産主義下では制作者は誰にでも作品を販売することはできない。とりわけ西側に販売することは困難だ。楽器は、ムシマ生協を通じてのみ販売でき、しかも直接的販売はできない。制作者は、全てのGDRの労働者と同様、労働の対価としてわずかな給料を支給された。多くの場合、製作者は自らのラベルを楽器に貼ることが許されなかった。ベルリンの東ドイツ政府は、民間事業、とりわけ輸出業を抑圧し禁止した。輸出は政府の完全なる支配下にのみ許された。東ドイツの中央の計画者たちは、東圏に輸出可能な製鉄、鉱山、重機重工業に関心を寄せていた。バイオリン製作者にとって、指板、糸巻、弦などの部品を入手することはますます困難になった。一方、松と栂は地元の山林から簡単に入手できた。何世紀も前からのドイツのギルド制度のおかげで、バイオリン製作者の訓練は統制され効率的に熟練製作者を輩出してきたが、共産主義下では、この体制は解体された。後に、マルクノイキルヘンにバイオリン製作学校が設立されたが、遅きに失した。驚くべきことに、冷戦の間には世界的に有名なシンフォニーオーケストラが活動していたにもかかわらず、ベルリンに1,ドレスデンに1、ライプツィヒに1のバイオリン製作者しか存在しなかった。当面Vogdlandから米国に届くバイオリンは非常にわずかだった。フィラデルフィアのWilliam Moennig & Sons社は、多くの良質な楽器を調達できた。 Moenning社に25年勤めたPhil Kassは、William Moennig Jr. が1930年代後期のマルクノイキルヘンを高く評価し、 多くの重要な関係を維持していたという。 戦後から1989年のベルリン壁崩壊まで、彼は、他の誰とも同様にムシマ生協を通じてではあるが、 マルクノイキルヘンの上質楽器を多数入手することができた。

戦後の困難な日々、彼は多数のCAREパッケージ (第二次世界大戦後、ヨーロッパの貧困地域に米国送金生協を通じて行なわれた援助) をバイオリン製作者に届け、生き残りを支えた。 私が勤務するイフシン・バイオリン社は最近、マルクノイキルヘンのパウル・デルフェルが 1951年に作った美しいバイオリンを販売した。これは当初、Moennig&Sonsにより販売されたものである。 Moennigが援助したその他の製作者には、Edmund and Theo Glaesel、Eckart Richter、Paul Knorr、Jochen Voigtと その一族、Hans Doellingその他がいる。 次第に、東ドイツの経済が悪化し債務が積み上がるにつれ、ベルリンの中央計画者は外貨、とりわけUSドル、ドイツマルクの重要性を認識しだした。 1970年代末までは、バイオリン製作者は道具すら満足に入手できなかった。Vogdlandにおけるバイオリン製作は、 安価で貧しいもので、西側の市場では価値の無いものだった。 同じ価格で、ブーベンロイト−エルランゲン地域あるいはミッテルヴァルト地域せ製作されたもっと 良質の楽器が手に入る。東ドイツがバイオリン製作部門が経済的に重要であることを認識し始めると、 St.Louisに代表を送り上質の楽器を売ろうとしたが、Vogdland地域がバイオリン製造の主役の地域を回復するには至らなかった。

ここ数年、Ifshin社は東ドイツ時代のマルクノイキルヘンで製造された上質のバイオリンを数多く入手した。 それらには隠されてきた製作者のラベルが補完されている。そのいくつかはイタリアの製作者のような、 個人性がある。それはあたかも、この地に留まった製作者が密かに作り、いつか販売できる機会を待ち続けていたかのようだ。

1933年まで、マルクノイキルヘンは世界のバイオリン市場を支配していたが、40年以上の孤立の間、 西ドイツの製作者と、最近の東ヨーロッパ(多くはルーマニア)、そして中国の製作者がバイオリンの 量産市場を支配するに至った。

東ドイツの製作者が市場規模において失ったものを取り返すことは今後あり得ないだろうが、 良質のバイオリンは引き続き製作されており、何世紀も前の伝統は維持されている。

[stringsmagazine.com]

エルベ川流域

チェコからドイツ東部を下る水系。
プラハ、ドレスデン、ライプツィヒ、マグデブルク、ハンブルクを経て北海に。
ベルリンも支流Spree川。チェコとドイツの国境にズデーデン山地が壁のように存在

マルクノイキルヘンの歴史

ザクセン州。サクソン人が住んでいた古ザクセンとは領域が異なる。
10の地域に分かれ、その一つがVogtlandkreis
3の都市がChemnitz(24万), Dresden(55万), Leipzig(58万)
[wiki]
[markneukirchen.de] [home][geschichte]
1200 開拓者 Albertus Nothalt de Wildensteinにちなみ、Nothaltの地名となる
1274 協会創設後、Newenkirchenの地名となる
1360 市法
1405 Markt Neukirchen の地名初出
1418 騎士席
1606 Breitenfeld
ルドルフ2世の後を継いだフェルディナント2世がプロテスタントを弾圧。
1618年30年戦争が始まる
1620年 白山の戦いでプロテスタントが敗北、その後の弾圧でチェコの多くの音楽家達も亡命
 ヤン・ディスマス・ゼレンカ(1679-1735)ドレスデン宮廷
 フランツ・ベンダ(1709-1786)ベルリンでフリードリヒ大王のコンマス
 ゲオルク・ベンダ(1722-1795)ゴータ
 ヤン・ヴァーツラフ・スタミツ(1717-1757)と二人の息子
1627 州議会に議席と投票権
1636 イージー・トシャノフスキー(159-1637)が「キタラ・サンクトルム」を出版
(フス派のカンツィオナール集)
1630-50 ボヘミア亡命者のマルクノイキルヘンへの定住
1633 都市火災
1658 Graslitzからプロテスタントの宗教難民がバイオリン製作
Kraslice(チェコ語):チェコ最西のバイオリン製作の町
1677 バイオリン製作会社
1750 弓つくり
1777 弦メーカー開業
1797 管楽器
1800 ギター製作
1834 音楽学校
1840 火災
1842 聖ニコライ教会新築
1843−4新庁舎
1873 業界団体の設立(楽器作りの推進)
1875 鉄道接続
1883 Gewerbemuseum(現在の楽器博物館)
1890-2 学校新築
1900 軍事協会
1902 新地方裁判所(1952以降の音楽学校)
1903 市立病院
1905-11 トランペットの開発
1909-75 線路
1945.5.6 米軍占領
1945.7.1 ソビエト軍
1946-72 10人以上の従業員を擁する全ての大企業の国有化
 それにもかかわらず、Marknewkirchen は民間企業のシェアが高い都市
1988 技能工学校
1989.10.7 SED政権に対する最初の静かな抗議
1989.10.11 デモ
1994.1 ウォルハウゼン設立
1994.3.1 ブライテンフェルト設立
1994.5.2 VogtLaendische Musikinstrumentenfabrik GmbH
1995 ホール(900席)
1996 山歩き
1999 Landwuest
2007 スポーツホール
2007 観光案内、美術館
2010 製材所、歴史展示会
2010 650年祝
2014 受賞
2014 無形文化遺産

クレモナにおけるヴァイオリン製作の現状と課題

大木裕子+古賀広志
18p、京都マネージメント・レビュー 第9号 pp18-36
20世紀初頭の世界のバイオリン生産の全体像と鈴木バイオリンの発展に触れている
バイオリン生産は、「伝統的工法を守る手作業による製品」と「大量生産品」に大別される。
大量生産品は、産業革命以後、ドイツ、フランス、ボヘミア、日本、中国などでヴァイオリン製作の 機械化が進められ、量産が可能となった。その結果、廉価な楽器が普及するようになった。
(1)ドイツ
(1-1)ミッテンヴァルト
(木材資源が豊か、マチアス・クロッツが中心となり大量生産。後継者教育に熱心。ギルド制を設立。
 ネック、胴体、糸巻き、駒、板などの部品は各家庭で別々に製造され、技術者の工房で組み立てられた。
 ノイナー・ホルンスタイナー社、バーダー社により第一次世界大戦前後に最盛期。
 後に、チェコのグラスリッツやシェーンバッハの製品に価格優位を奪われ衰退。
  (1-2)旧東ドイツのマルクノイキルヘンとクリンゲンタール
 古くから大衆向け楽器の生産地。第二次世界大戦前には、楽器製作専門学校が存在し、精力的に楽器製作。
 大戦後東西ドイツの分割が、ヴァイオリン産業の衰退の遠因となる。 (1-3)ブーベンロイト、エルランゲン周辺
 現在のドイツにおけるヴァイオリン生産拠点。戦後、マルクノイキルヘンやチェコのシェーンバッハの製作者が移住。
 現在、人口3000人の小さな町にヴァイオリンメーカー25、弓メーカー20が集積。
(2)フランス
 ミルクール(17c〜)
(3)チェコ
 シェーンバッハ。17〜18cに架け、ヤコブ・シュタイナーやドイツ楽器の影響を受けたオールドが製造された。
 18〜19cに架けて、ストラディバリ型の製作地として有名となる。
 マルクノイキルヘン同様に、家内工業による部品製作と、職人による組み立てによる大量生産システムを実現
 1968年のソ連軍進入によりヴァイオリン製作は中断。 (4)日本
 1987年、鈴木ヴァイオリンが創業。ピーク時には年間15〜16万本のヴァイオリンを生産(1921)。
 1951年、木曽鈴木ヴァイオリン(〜1983年)。
 近年、ヤマハが量産ヴァイオリンに参入
(5)中国
 日本よりも古いが、西洋の伝統的技術にとらわれない独自製法が採用され、品質が批判された。
                  *
 現在、練習用の普及品とは異なる「手工品」にこだわり続ける職人が少なくない。
 ロンドン、ニューヨーク、パリをはじめ世界各国の都市に分散する傾向。
 クレモナは工房を集中させる戦略(本論文の主題だが、後略)

Bolzano

トレンティーノアルトアディジェ州、人口10万
Bolzano, Bozen, Bozn, Booze, Bulsan
ブレンナー峠を越えてアウクスブルクとヴェネツィアを結ぶ

楽器商

地図では4軒ほどあり
Musikhaus Bozen
Disco New
Nusik Walter GmbH/Srl
Musik Import KG
Thomas Guitar
Pro Musica SNC

Mittenwald

Bavaria州Garmisch-Partenkirchen県
二千年来の街道筋、14世紀にPrince-Bishopric of Freising の領地となる。
1802-3にPrince-Bishopricは廃され、バヴァリアの領地となった。
17世紀には、スペインとオランダを結ぶ陸路として大発展。

ドイツで第二のバイオリン製作の中心
マルクノイキルヘンではボヘミアからの移住者がバイオリン産業を支えたのとは違う条件
(1)カルウエンデル山地の高度が響きの良い材木を育んだ
(2)町はアウグスブルクからボルツァーノを経てベネチアを結ぶ街道筋にあり、 販売面では有利。
(3)チロルと北イタリアの名工から学ぶチャンスが高い。1800年頃のクロッツ一族の作品は、 シュタイナーとアマティの伝統を引き継いでいる。
【量産化の歴史】
1707 J.Baaderが、バイオリン製作者を雇用した。J.A.Baader & Co 社はNeuner&Hornsteinerと共に Mittenwaldで重要な会社となる。
19cにはミッテンヴァルトのバイオリン製作は、単純で安価な楽器の需要に合わせて工業化された。 分業化を促進するためにBavariaのKing Maximilian II はミッテンヴァルトバイオリン製作学校を開設し、 長年培われた伝統的知識を保護した。
第一次世界大戦の後、ミッテンヴァルトのバイオリン産業は崩壊し、第二次大戦後まで再興することは なかった。特別に質が高いバイオリンにより名前を知られるのみとなった。今日の来訪者は、 バイオリン製作博物館で、ミッテンヴァルトのバイオリンの歴史を知ることができる。
[corilon.com] 店内のVR表示あり[violin-leonhardt.de] Geigenbaumuseum [tripadvisor.jp]

楽器商

地図では4軒ほどあり
Alpentonholz Pahier
Anton Maller Geigenbaumeister
Anton Sprenger Geigenbaumeister
Geigenbau Leonhardt

CiacconaとPassacaglia

 Monteverdi((1567-1643) Zefiro Torna (ciacconaの形式でブーム)
 Frescobaldi(1583-1643) passacagliaと ciacconaを対比的に理解 
 Heinrich Shuetz(1585-1672) 独逸音楽の父、Monteverdiに習う
 Antonio Bertali(1605-1669) ciaccona
 Biber(1644-1704) passacaglia
 Torelli(1658-1709) Pisendel のviolin師
 Bach(1685-1750) BWV582(passacaglia) 1004(ciaccona)
 Pisendel(1687-1755) Bach無伴奏曲の想定奏者